
創価学会の葬儀は僧侶がいないことで知られている。
この葬儀らしきものは「友人葬」といって、僧侶の代わりにどこの馬の骨とも知れぬ学会幹部が導師となり、経文を唱えるのである。
これは一体、何事なのだろうか?
本記事において創価学会の葬儀の異常さについて述べさせてもらう。
★僧侶がいない理由
創価学会は日蓮正宗から破門されて別の団体になったので、僧侶を呼ぶことができないのだ。
そのため、創価学会は「儀典部」と呼ばれる人材グループを結成し、ただのおっさんにすぎない幹部に導師を務めさせているのである。
学会は、この件についてろくに説明もせず「僧侶は不要」と開き直っている。
ところが、これに違和感を感じていないのは学会員のみであり、一般人の参列者は不安そうな面持ちで一杯である。
それもそのはずであろう。
世間一般では「葬式には僧侶が来るものだ」と認識されているからだ。
いるはずのものがいないことが違和感を生む原因となっているのだ。
★親族大激怒
学会員は「会員ではない親族」から葬儀について責められることがあるという。
それもそのはず、学会員ではない人にとって、常軌を逸した光景を受け入れることなどできないからである。
厳粛な場で奇特な行為など言語道断なのだ。

★参列した学会員が死人の相
友人葬は同じ支部の学会員というだけで故人と面識がなくても葬儀に無理矢理駆り出される。
活動家という立場上、仕方なく参列した学会員は日々の活動によって疲れ果てた顔をしており、その場で死ぬのではないかと思われる奴がたくさんいる。
いっそのこと、そいつらの葬式もまとめてやってしまえ、と言いたくなるくらいである。
また、友人葬が行われる時の傾向性として、選挙活動に明け暮れている時にかぎって誰かが死ぬというものがあり、参列者が嫌々題目を唱えているというものがあり、「忙しい時に死ぬんじゃねえよ」と思っているのは、誰が見ても明らかであった。
★終わりに
故人を送り出す儀式の場で奇異な目で見られる行為をする学会は異常集団である。
こんな邪教とは即刻縁を切るべきだ。
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