
創価学会の教学試験は勉強する価値がなければ必要性もない。
貴重なプライベートの時間が大量に奪われるだけでなく、会合で行われる勉強会の参加者が馬鹿しかいないことにより、進行スピードが遅すぎるので腹立たしいことこの上ない。
そんな教学試験について述べたいと思う。
★生活に必要がない
創価学会の教学試験に合格したところで、収入が増えるわけでもなく、日常生活において何の役にも立たない。
それどころか、勉強時間の確保によってプライベートを潰され、休養も取れなくなるので、時間の無駄である。
不合格でも困ることはないので、勉強をさぼって遊んでいるのが得策といえよう。
★他の試験と被った時に困る
教学試験の勉強が仕事関係の資格取得や習い事の試験と被った時に「全てに勝て!!」などとほざく幹部がいるが、こんなものは無茶もいいところだ。
これは両立させろ、ということなのだが、試験勉強というものは力を一点集中させなければ合格を勝ち取ることができないものである。
力の分散は中途半端の原因となり、どちらも不合格になってしまうからだ。
教学試験受験者が少ないと幹部が困るからそう言っているだけにすぎないのだ。

★普段の活動も休めない
教学試験の勉強に専念したいから会合に参加しない、という言葉は聞く耳を持たれない。
折伏や新聞啓蒙、会合参加も普段通り行わなければならない。
「戦いの中で学んでいく」とのたまう馬鹿が幹部なので、このような暑苦しい精神論をほざくのだ。
★教える側もよく分かってない
会合で勉強会を行うものの、講師を担当する幹部もいまいち分かっていないことが多い。
特に男子部の幹部は「学生時代に勉強をさぼってヤンキーになった者」であるため、教え方が下手すぎて何を言っているのかさっぱり分からない。
あれでは不合格の者が続出するのも無理もない話であろう。
★終わりに
教学試験は疲れるだけで得られることが皆無である。
あんなものと他の試験が被った場合、迷わず、もう一方を優先させるべきだ。
学会の試験に合格したところでスキルが身につくわけではないので、やる意味がないのだ。
試験の難易度は低いので、大したことはないのだが、その程度のものを理解するのに苦労する男子部員は、やはり阿呆の巣窟である。
これだから学会員は低学歴の集まりなのだ。
