
学会活動は↑こちらの画像そのものである。
あんな苦しみは未来永劫繰り返してはならない。
池田の下僕となって生きることは、まさに地獄絵図だ。
創価学会には2月闘争というものがあり、毎年2月になると奴隷扱いに拍車がかかり、体力的にしんどい目に遭わされる。
理由は後述するが、これで苦しんだ人は多いはず。
本記事は折伏地獄・2月闘争について述べたものである。
目次
★2月闘争とは?
戸田城聖氏が創価学会第二代会長に就任した1951(昭和26)年の5月3日のことである。
就任式の席上、戸田氏は、自身の生涯の願業として「75万世帯の弘教達成」を宣言した。
ところが、当時の創価学会の会員数は約3000人に過ぎず、戸田氏の願業を遠い日のことと捉える会員がほとんどで、就任式から就任後9ヶ月後も弘教は遅々として進んでいなかった。
具体的には、当時、最も活力ある支部でも月に100世帯の弘教という状況にあった。
そうした中、当時24歳(1952年:昭和27年2月時点)であった池田大作は、蒲田支部の支部幹事として、折伏に奔走し、それまでの限界を大きく打ち破る「201世帯」の弘教を達成した。
これが「伝統の二月闘争」のはじまりである。
この折伏は全国の学会員を奮起させ、75万世帯の願業達成へのきっかけとなった。
こうして毎年2月になると、慌ただしくなるというわけである。
★学会の折伏成果
二月闘争以後の創価学会の折伏成果は以下のとおり。
- 1951(昭和26)年5月3日:会員数3000人|戸田城聖第二代会長就任式で75万世帯達成を宣言。
- 1952(昭和27)年2月:★鎌田支部「201世帯」の折伏。
- 1952(昭和27)年:2万世帯を超える。
- 1954(昭和29)年:10万世帯(同年春)。
- 1956(昭和31)年:50万世帯(大阪の戦いの年末)。
- 1957(昭和32)年:75万世帯達成。
- 1958(昭和33)年4月2日:★戸田城聖第二代会長逝去。
- 1960(昭和35)年5月3日:★池田が第三代会長に就任。
- 1962(昭和37)年11月:300万世帯達成。
こうして学会員による迷惑行為は現在に至っており、学会の活動家に対する社会の顰蹙は日々増大しているのである。

★なぜ現在の会員がしんどいのか
昔の活動の成果である2月闘争は現在の会員を苦しめる要因となっている。
例の如く、毎日会合があるというだけでなく、折伏に死力を尽くさなければ幹部に恫喝されるからだ。
池田が奮闘したのに続くのが伝統になっているというのがその理由なのだ。
要するに、上の立場の者がしたことを下の者もやれという同調圧力にすぎないわけで、こんなものは学校の部活でよくありがちな「先輩がしたことを後輩もするのが我が部の伝統だ」といっているのと同じである。
奴等はヤンキー全盛期の頃の不良なので、その思考から抜け出せないのだ。
★2月以降しばらく休めない
地獄はさらに続く。
この2月闘争は奴隷扱いの序章にすぎない。
これが終わったら、すぐに3月16日の広宣流布の日を目指した折伏が開始され、その後も5月3日の会長就任日、11月18日の創立記念日を目指した折伏でこきつかわれる(これを期日と数の戦いというが、この件に関して詳しくはこちらで詳しく暴露しているので、参照してほしい)。
さらに選挙活動が加われば休む暇なしである。
2月から活動が激化し、11月中旬までその状態が続くなど「死ね」と言っているようなものである。
これでは学会活動は殺人と同じであり、ブラック企業そのものだ。
それでも黙って従っている罵詈活どもは「思考停止した小間使い」もいいところで、考えることを放棄するという行為の恐ろしさが身に染みてよく分かるのだ。
学会員よ、今のままだと組織に殺されるぞ!!
↓この画像のようになってしまわないうちに脱会するべきではないのか!?

★終わりに
罵詈活どもは活動以外にすることがない暇人なので、2月闘争から続く地獄の連続に耐えられるが、プライベートの時間がたくさん必要な人や文科系の人は迫りくる怒涛の如く苦痛に対し、死んだも同然の状態にされるであろう。
はっきり言って、こんなものは人権無視もいいところで活動のために生活しているようなものではないだろうか。
社畜と何が違うというのか、という話だ。
2月闘争は学会以外のことを考える時間を奪い、組織に対する疑問を抱かせないようにするための洗脳行為といえよう。
ただでさえ、新年勤行会とその準備で年末年始に休めなかったにもかかわらず、2月闘争からはじまる多忙のコンボなど笑い話にもなりはしない(新年勤行会にせっかくの休みを潰される問題については↓こちらをクリック)。
幸福になるはずの宗教活動で破滅に陥るなどあってはならないのだ。